ロケLOG

大学生のロケットマンによるブログ

成功するのが運ならば、人を殺すのも運

成功することの要因として「運」を上げる人は多いと思うし、僕もそう思う。

たまたま成功者は運がよく、成功しただけだ。

頑張ったから成功したという人はいるが、それは違う。

 

頑張ることができたのも運だ。

たまたま頑張れるモチベーションと出会えただけだ。

 

結局は運だ。

 

人を殺すのも運だ。

たまたま、人を殺したくなっただけだ。それは色々な要因がある。

 

人を殺す人はもともとやばい奴だったみたいなのもあるが、それは違う。

やばい奴になるのも、たまたまなっただけだ。

 

それは人間というプログラムがそうなっているだけである。そういうやばい奴が現れるから人間は生き残ってきたのである。

 

なので殺人者について罪はないと僕は思っている。それはたまたま殺人者になってしまったからである。それは運命だっだということだ。

 

そんなことを言うなら、君の家族が殺されたらどう思うか?

 

僕は犯人をぶっ殺したくなるだろう。

 

罪はないと思っているがぶっころしたくはなる。これは矛盾はしていない。

 

 

仲間が殺されて、殺人者をぶっ殺したくなるのは、ただ単に一族が生き残るためである。一族の敵をぶっ殺した一族が生き残ってきたのだ。

そのDNAが生み出した感情である。

 

というよりは、そのように考えた人類が今まで生き残っていたというだけだ。

 

 

なら罪と言われるものを犯した者はどうするのか。

ただ単に、罪を犯さないようにするだけだ。

 

罪を犯した者は、罰がなくても罰をうける。罰はただ単に、仲間を殺されたから復讐するという心が作り出した、くそだ。

 

そんなものがなくとも、罪と呼ばれるものを犯したものは罰を受ける。

 

それは簡単なことだ。

 

罪はやられる側が不幸になることではなく、やる側が不幸になることである。

 

 

やったら不幸になるのだ。

 

そして改善するのだ。

 

つまり罪に対して罰はいらない。

なぜならば、罪は運という名の運命のもと行われた事実だからである。

変えられないものである。

 

また、罪を犯した者は自然と罰を受ける。

さらに言うと、罪を知らなければ自然の罰は受けない。

 

自然の罰とは罪を犯したという認識である。